映画産業の父・河浦謙一と船原温泉の開発 第三部 (Kenichi Kawaura, a Pioneer of Japan’s Film Industry, and His Development of Funabara Onsen: Part 3)
9.河浦謙一撤退後の船原ホテル:高度経済成長期の温泉観光
船原ホテルはいつ、どのようにして河浦の手を離れたのだろうか。順天堂の経営が「約一〇年で」中止されたという、そのときの詳細は不明だが、前掲の河浦のメモには、先の引用箇所に続き次のように書かれている。
后東京順天堂病院長佐藤達次郎男爵に譲り昨年同氏より吉川伯爵に譲り同氏の手にて東海観光株式会社を組織し大規模の観光ホテル設備中なり
この記述によれば、船原ホテルは河浦から佐藤達次郎へ、そして佐藤から「吉川伯爵」へと渡り、その「吉川伯爵」によって東海観光株式会社が組織されることとなった。なお、文中に「昨年」の文字が見られるが、河浦がこのメモを作成した正確な時期は不明である。
○東海観光が買収
次の資料によれば、船原ホテルが東海観光に渡ったのは、昭和22(1947)年であった。
船原ホテルは昭和二二年に、富士観光の前身である東海観光(現在ある東海観光事業会社とは異なる)によって、買取られた。
「企業をになう人々 船原ホテル」『月刊 ホテル旅館』昭和42年6月号
そして、東海観光は間もなく商号を都観光に変更の後、富士観光に合併されることになる。富士観光株式会社社長の石川武義は当時の事情を次のように回想している。
私の尊敬する人に、厚生大臣の小林武治さんと大阪商船三井船舶の社長になった進藤孝二さんとがいる。[中略]戦後、進藤さんは、三井系の東海観光(今の東海観光ではない)をやっておられ、[中略]うちの会社にはいらないかということだった。それで、都観光と名まえを変えて、私が副社長ではいった。その後、私が清水で経営していたホテル日本平を、小林さんのアドバイスで、富士観光と名まえを変え、東海観光と合併して、現在の会社にしたのである。
石川武義「尊敬できる人」『ダイヤモンド』昭和39年4月20日号
『富士観光株式会社の沿革と現状』(昭和26年)によれば、東海観光株式会社の創立は昭和22(1947)年11月で、昭和23(1948)年5月に都観光株式会社に改称、翌24(1949)年11月には「資本金三五〇万円を増資して伊豆の仙境船原温泉にある船原ホテルの大改修に着手し」た。富士観光株式会社との合併は昭和25(1950)年5月である。また、都観光の取締役(都観光『第四期報告書』)、富士観光の取締役(富士観光『第八回定時株主総会結果報告』)に芳川寛治の名が見られるが、東海観光を組織した「吉川伯爵」というのは、正しくはこの芳川(大正9年に伯爵を襲爵)のことではないだろうか。
そして、新たな経営者に石川武義を迎えた船原ホテルは、さらに大きな変貌を遂げてゆくこととなる[13]。
○元祖お狩場焼と純金風呂
船原ホテルの名物として知られたものに、元祖お狩場焼と純金風呂があるが、これらはいずれも富士観光の時代に現れたものである。お狩場焼とは炉端焼きの一種で、富士観光『船原ホテル』(リーフレット)の解説には「その昔、源家再興を志す頼朝が、伊豆の豪族土肥の次郎実平と狩にこと寄せて、この船原ホテル周辺の山野で猪、山鳥、鮎、岩魚、椎茸、山菜などを石炉で焼き、それを賞味しながら密議を凝らしたという史実に基いております」とある。
純金風呂は昭和39(1964)年に純金(22金)38貫を費やして造られたもので[14]、製作費は1億3千万円。設計製作監修は、長崎の平和祈念像などで知られる芸術院会員の北村西望が手掛けた。富士観光『船原ホテル』(前掲)には「1回1年長寿」を謳い、「ソロモン王、太閤秀吉も果たし得なかったゴージャスな王侯気分が、いつでも、誰でもお気軽に味わえます」と書かれている。2分間で1,000円という高額な入浴料にもかかわらず、最初の1年で3万人の利用者を集めたという[15]。

また、ホテルの本館から船原川を挟んだはす向かいに鉄筋4階建の巨大な「新館」が建設されたのも、この時代である。当時の週刊誌によれば、昭和38(1963)年から39(1964)年にかけて16億円を投入し、設備の全面改築を行ったものであり、その結果客室の数が従来の30から100へ劇的な増加を示している[16]。この新館が、間もなく「本館」と呼ばれるようになる。

なお、この時期の船原ホテルではしばしば映画撮影が行われた。昭和39(1964)年6月公開の『白日夢』(第三プロダクション製作、武智鉄二監督)、昭和40(1965)年7月公開の『喜劇 駅前金融』(東京映画製作、佐伯幸三監督)、昭和45(1970)年5月公開の『ハレンチ学園』(日東プロダクション=ピロ企画製作、丹野雄二監督)がその例で、後の2作品ではお狩場焼や純金風呂も劇中に登場している。さながらロケーション撮影の新名所となった感もあるが、それが一転、昭和45(1970)年には経営の悪化が明らかになり、横井英樹社長の東洋郵船への売却が報じられることとなった。
○東洋郵船が買収
昭和45(1970)年11月27日付読売新聞に次の記事が出ている。
富士観光(石川武義社長、資本金四十億円)は二十六日“純金ブロ”で有名な同社の船原ホテル(静岡県田方郡天城湯ヶ島町)と結婚式場の富士観会館(東京都世田谷区玉川)を東洋郵船(横井英樹社長)に売却したことを明らかにした。別府市のホテルなど別のホテル二軒の買収で資金繰りが行き詰まったためだが[中略]東洋郵船に船原ホテルを八億円(簿価十一億七千万円)、富士観会館を二億円(同二億七千万円)で売却することになったもの。
図23は、東洋郵船グループが船原ホテルを経営していた当時のチラシである。純金風呂を図案にあしらい20億円というあり得ない額面(金の輸入自由化を背景にした純金風呂の時価であろうか)の紙幣を模した、ジョークグッズのような趣向だが、なにぶんにも経営の理念が河浦の頃と比べひどく様変わりした感は否めない。なお、チラシの裏面はホテルの案内になっていて、「ご宴会コース」(ホステス)、「大虎コース」(飲み放題)、「ポンロンコース」(麻雀卓)、「にぎやかコース」(伊豆太鼓やショウ)、「おいろけコース」(ヌードショウ)、「黄金コース」(純金風呂)の紹介が並ぶ(括弧内は主要なサービス)。

ところで、日本交通公社調査部編『観光読本』は、戦後から高度経済成長期にかけて温泉地の旅館、ホテルに生じた変容を次のように記している。
戦後の荒廃、食糧難の時代から、朝鮮戦争、高度経済成長期にかけて、都市住民を中心に一夜の享楽を求めて人々は温泉地へと集まり、温泉地は盛り場的な色彩を強め、一泊二食宴会型の宿泊観光地となる。この時代から、社内慰安旅行、企業の招待旅行などの団体旅行が活発化して、温泉地の旅館・ホテルの対応も変容しはじめた。温泉の効能は軽視され、大風呂と宴会場があればよかった。大量化、集中化、効率化によって、受入れ側の旅館・ホテルは、施設の量的規模拡大と効率化を競い、各地で大型旅館・ホテルの建設ラッシュとなった。
昭和四〇年代に入って高度経済成長とともに旅行の大衆化はますます進み、旅館・ホテルの建設ラッシュが続いた。
日本交通公社調査部編『観光読本』(東洋経済新報社、平成6年)74頁
団体旅行の活発化に伴い、温泉地は「盛り場的な色彩」を強め、「宴会型の宿泊観光地」へと変化しながら、各地で「大型旅館、ホテルの建設ラッシュ」を迎えた。船原ホテルの変化も、このような時代の風潮と重なるものであったと考えることができるだろう。
○船原ホテルの火災
昭和58(1983)年11月24日付朝日新聞夕刊は、船原ホテルの火災を報じた。
二十四日午前三時半ごろ、静岡県田方郡天城湯ヶ島町上船原の「船原ホテル」(立花義信社長、地上四階地下二階建て)の四階調理場付近から出火、一万五千百二十八平方メートルのうち、四階だけ約千二百平方メートルが焼け、約二時間後に鎮火した。横浜市の敬老会ツアー一行などが一-三階に宿泊しており、避難する際、老人六人が手足に重軽傷を負った。防火扉やスプリンクラーなどが作動し、大参事は免れた。しかし、従業員による避難誘導が遅かった、という声が客から出ている。[中略]同ホテルは、製作費三億円といわれる純金ぶろを売り物にしている。四十五年から東洋郵船(横井英樹社長)が経営、今年八月に東邦観光(立花義信社長)に名義変更したが、実質的には現在も、横井氏がホテルの建物を管理している。
「防火扉やスプリンクラーなどが作動し、大参事は免れた」というのは、前年2月に同じ横井社長が経営する東京のホテル・ニュージャパンで起きた火災が、防火設備の不備から死者33人を出す惨事となったことを教訓に、地元消防組合の強い指導で設置されたものであり、その効果が発揮されたことは不幸中の幸いであった。
もしも河浦が生きていたら(河浦が没したのは昭和32年)、船原ホテルの行く末はどのように映っただろうか。だが、それ以前に、そもそも河浦が船原ホテルを手放した理由は何だったのだろうか。これも正確な事情はわからないが、まず想像されるのは、河浦自身が老境にさしかかっていたことであり(昭和22[1947]年に東海観光がホテルを買収したとき79歳)、またもう一つは戦争による世の中の混乱である。思えば、昭和の始まりとともに船原ホテルを開業した河浦を待ち受けていたのは、昭和恐慌そして満州事変に始まり、ついには敗戦にいたる、長く厳しい戦争の時代であった。昭和6(1931)年に順天堂が船原ホテルの経営を始めた後、「約一〇年でこの経営は中止された」というのも、太平洋戦争の開戦やその後の戦況の悪化と無関係ではないのではなかろうか。
10.その後の船原温泉
田中純一郎が河浦と面会を果たした船原温泉とはどのようなところなのか、その場所を自分の目で確かめることは筆者の長年の懸案であったが、初めて訪ねることができたのは平成29(2017)年、河浦のことを調べ始めてから10年以上が過ぎていた[17]。
本稿の冒頭で触れた船原ホテルの廃墟は、平成16(2004)年に解体が始まり[18]、翌平成17(2005)年12月には跡地に日帰り温泉施設「湯治場 ほたる」(伊豆市上船原545)が開業した。「純金風呂で名を馳せた旧船原ホテルが再生しました」とは「伊豆市観光情報サイト」[19]の解説である。しかし実際に現地を見ると、ほたるの置かれた場所は広大な船原ホテルの跡地の一部でしかないこと、つまり富士観光が建てた鉄筋の本館があった敷地(戦前の鳥瞰図では「ホテル別館」の建設が予定されていた辺り)を指したものであることが判る[20]。
ほたるの並びには、「ものわすれの湯 船原館」(伊豆市上船原518‐1)[21]がある。河浦が船原温泉に進出した当時から現在まで(建物や経営者は変わっているが)営業を続けている唯一の旅館であり、天然温泉やお狩場焼を今でも楽しむことができる。ご主人の鈴木基文氏によれば、現在の船原館は昭和33(1958)年に父上が経営を始めたものという。そして、この船原館から船原川を挟んだちょうど対岸に、最初の船原ホテルが建っていたのだが(戦前の鳥瞰図では「ホテル本館」や「大浴場」があった辺り)、現在では林の中にわずかな空き地や敷石の跡が残されているに過ぎない。


このように、船原ホテルに関わる建物はすっかり姿を消してしまったが、船原川だけは戦前の地図や鳥観図とほぼ同じ形をとどめている。それを頼りに、川下へと歩を進めると、かつて名士たちの別荘が立ち並んだ場所も中層集合住宅の建物に変わっていた。これらは後年、船原ホテルが社員寮として使用していたものだが、現在は無人だという。浅草六区の映画街と同様に、時の流れは、河浦が船原温泉に築いた全てのものをかき消してしまったのだろうか。

しかし、そんな思いにとらわれたのも束の間、驚くような景色がその先に待ち構えていた。河浦別荘の跡地が旅館になっていることを、このときまで知らなかったからである。それは、「山あいの宿 うえだ」(伊豆市上船原466‐1)[22]という、7つの客室に6つの浴場を持つ隠れ家のような旅館で、日本秘湯を守る会の会員宿にもなっている。オーナーの植田正光氏は歯科医として伊豆市内に医院を開業するかたわら、うえだを経営している。狩野川の旅館に生まれ育った植田氏は、全国屈指の鮎釣り名人としても知られ、狩野川漁協組合会長も長年勤めたという。その植田氏が、うえだを開業したのは平成10(1998)年であった。植田氏は自身の著書に当時の事情を次のように記している。
もともとそこに、元やんごとなきお方の隠れ家を旅館にしたという古びた温泉宿があったんだけど、その家屋の老朽化のせいか、あるいは二千坪という敷地の広さによる高価格のせいか、売りに出て二年ほど買い手がつかないままだった。[中略]行ってみて驚いたのは、お客さんがいたことだ。建物はかなり傷んでいたけれど、温泉がものすごくいいので、旅館の主は売りに出したあとも、お客の要望があるときは細々と営業を続けていたんだな。それを見て、急に欲しくなったんだ。[中略]この旅館でわたしがやりたかったことは、大規模な旅館ではできないことだ。少ないお客なら、自分で釣った天然アユを十分に振舞うことができる。柿宇土伝一名人の話ではないけれど、わたしでも小さい旅館が必要とするくらいの数のアユや渓流魚なら自前で用意する腕はある。かくしておよそ十年、宣伝下手でお愛想も不充分な小さな旅館は、なんとか営業を続けている。歯科医院の診療を終了した後のわたしは、この旅館の専属漁師というわけだ。
植田正光『日本一のアユ漁師と釣り人たちを育んだ狩野川』(つり人社、平成19年)86頁
「元やんごとなきお方の隠れ家を旅館にしたという古びた温泉宿」を購入したという、その「やんごとなきお方」が誰を指すのかは植田氏にもわからないそうだが、あるいは、かつて伏見宮博義王がこの場所に宿泊していたという話が伝わったものであろうか。また、河浦謙一の名前にも聞き覚えはないとのことであり、植田氏が買い上げた当時の旅館の名は「丸山荘」であった。うえだの建物や間取りはその当時のものを引き継いで改修を加えたものだが、なかでも一番広い客室の「鶺鴒[せきれい]」に古い時代の姿が残されているという。ところが、その鶺鴒と対面した瞬間、筆者は思わず息をのんでしまった。その部屋は、船原川を臨む庭に面していた。今ではすっかり改装された旅館の正面からは予想もつかないような年代物の建築で、二重屋根が特徴的な建物の外観が、本稿の冒頭に紹介した写真の「河浦別荘」とそっくりだったからである。
このときの写真は、後日、河浦謙一のご親族である加藤信一さん(五男)と柴田直子さん(三女)に確認していただくことにした。お二人によれば、うえだは間違いなく河浦の「自宅」だったものである(なお、ここが「河浦別荘」や「友水荘」と呼ばれた時代があった話には聞き覚えがないそうである)。そして、「鶺鴒」はかつての客間であり、お二人が憶えているのはまだ幼かった戦時中のことであるが、部屋の外観は当時の姿をそのまま残しているという[23]。

なお、田中が船原を訪問したという昭和15(1940)年当時も、河浦は(そしてお二人も)このうえだの場所で暮らしていたが、後にはこの自宅を手放し、船原ホテルの上流側(ご記憶では、現在はほたるになっている辺り)に建てた新居に移り住んだそうである。ところがその家はすぐに火災に見舞われたため、かつての映画事業に関わる古い資料もほとんどがそのときに失われてしまったという。この後日談も意外だったが、転居も火災も終戦間際のことだったというので、つくづく、田中の訪問も奇跡的なタイミングだったといわなければならない[24]。
冒頭でも触れたように、河浦は田中と面会した当時70代を迎えていたが、それから15年近くをこの船原で過ごすと、昭和30(1955)年に生まれ故郷の富山へ戻り、昭和32(1957)年10月16日に89歳で没した。
だが、この間の歳月こそは、まさに我が国の映画史研究の新たな幕開きと同期していくこととなるのである。田中はその後も河浦との文通による交流を続けながら、雑誌記事の連載等を経て、昭和23(1948)年にはついに『日本映画史 第一巻』(斎藤書店)を上梓している(ただし後続の巻は刊行されず)。それが『日本映画発達史』全3巻(中央公論社)の発刊に結実するのは(後に第4巻、第5巻が加わる)、河浦が他界する直前の昭和32(1957)年1月から4月にかけてのことである。一方で、これらの取り組みが河浦の晩年にも影響を及ぼしたことは言うまでもない。日本映画史の研究が彼を再評価の光で照らし出すのと同時に、河浦自身もまた、映画事業を起こした若き日を回想し、記録の伝承に心を砕くことになるのだが、これについてはまた稿を改めて述べたい。
11.おわりに
以上、本稿では我が国映画産業の祖として知られる河浦謙一による船原温泉の開発とその背景を入手し得る資料からたどってみた。船原ホテルの開業は大正15=昭和元(1926)年であったと思われる。河浦が事業を始めたのは、日本全国で交通網の開発整備が活発化していたさ中のことであり、伊豆半島も例外ではなかった。その中でも最大のものが丹那トンネルの工事と熱海線の計画であり、また船原温泉の周囲でも修善寺駅の開業、県道の開通が続いた。このように、船原温泉の開発は、伊津半島に押し寄せる開発の波とツーリズムの拡大、その中で高まる温泉観光のブームと軌を一にしていた。そして、大正初年の時点では湯治目的の利用に限られていたという船原温泉も、勝景の遊覧を兼ねた「仙境」へ、生まれ変わろうとしていたのである。ここには、伊豆の観光事業の発達史が凝縮されているとは言えないだろうか。
船原ホテルは河浦地所部が地元の旅館、舟風館鈴木を買収し建て替えたものであったが、浴場の建設には野澤屋呉服店(後に横浜松坂屋本館)の設計で知られる出浦高介や温泉学の大家として高名な藤浪剛一を招き、デザインと設備の双方で先進性を追求したことが判る。和洋両式や茶代廃止のスタイルは、船原温泉の景観や観光業を一変させたと思われる。これらは、後年の様子からは想像もつかなかった船原ホテルの本来の姿を浮かび上がらせるとともに、かつて河浦が、浅草公園第六区に並ぶ見世物や芸能の観物場を洋風建築の映画館に塗り替えたことや、いち早く女性の案内人を配置して前近代的な興行街の空気を一新したことを思い出させる。
また、河浦地所部が分譲する別荘地には総理大臣経験者の清浦奎吾や順天堂医院長の佐藤達次郎など有力な政財界人たちが集まり、皇族の伏見宮博義王も河浦別荘や船原ホテルへ繰り返し宿泊に訪れた。河浦の中には、実業家としての豊かな人脈を顧客に取り込むことも想定されていたと思われる。
これらは、我が国に映像の時代をもたらしたパイオニアの、しかしそれにとどまらない、知られざる実業家としての全体像を知る最初の手がかりを与えてくれるものである。そして、一見意外に思えた河浦と温泉事業の結びつきも、実は明治以降の近代化を背景とする日本人の生活・文化の変化を先取りしようとしている点において、彼の映画事業とも深く通底していたことを教えてくれる。船原ホテルは伊豆半島の近代化と、河浦の近代化への志向が重なり、生まれたものであったと言えるだろう。
謝辞
本稿の執筆にあたっては、河浦謙一ご親族の加藤信一氏、柴田直子氏、河浦道子氏、河浦輝雄氏、「山あいの宿 うえだ」の植田正光氏、「ものわすれの湯 船原館」の鈴木基文氏、ならびに上田学氏、大八木勉氏、平野正裕氏、藤谷寿美夫氏、佐伯知紀氏、日本映画大学附属図書館、静岡県立中央図書館、清浦奎吾顕彰会より多大なご協力を賜りました。記して感謝いたします。
註
[13]石川武義の経歴と船原ホテルの経営については『財界新怪物伝 裸一貫からのしあがった11人の侍』(池田書店、昭和40年)に詳しい。
[14]「純金風呂一年間のバランスシート」『実業の日本』昭和41年2月1日号。
[15]同上。
[16]「注目される富士観光の今後」『ダイヤモンド』昭和40年5月10日号。
[17]平成29(2017)年10月16日に船原温泉を訪問、また「ものわすれの湯 船原館」で鈴木基文氏に話をうかがう。平成30(2018)年9月27日に再び船原温泉を訪問、また「山あいの宿 うえだ」で植田正光氏に話をうかがう。
[20]「湯治場ほたる」は本稿執筆後の令和6(2024)年12月27日を最終営業日として閉館した。「【湯治場ほたる】閉館のお知らせ」https://www.tokinosumika.com/news/6270/ (最終アクセス:令和8年5月27日)。なお、同ページには「2003年11月のオープン以来」と書かれている。
[23]なお、「山あいの宿 うえだ」は本稿執筆後に閉業。日本秘湯を守る会公式Webサイトに「静岡県 山あいの宿 うえだ は2022年5月をもって日本秘湯を守る会を退会いたしました」とある。 https://nihon-hitou.org/news/info/1840 (最終アクセス:令和8年5月27日)。また、その跡地にはTenn. Retreat&Private Villaが開業した。公式サイトには「2025年12月 Grand Open」とある。 https://www.tenn-izu.com (最終アクセス:令和8年5月27日)。
[24]河浦謙一が田中純一郎に宛てた手紙(昭和24年2月15日付)には「昭和二十年五月自家全焼」と書かれている。
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