映画産業の父・河浦謙一と船原温泉の開発 第二部 (Kenichi Kawaura, a Pioneer of Japan’s Film Industry, and His Development of Funabara Onsen: Part 2)

7.別荘地の分譲:船原温泉と社交界  

 ここで、河浦地所部の主な業務であった別荘地の分譲についても見ておきたい。『分譲案内』には、早くも分譲済みの別荘予定地が次のように記されている。
 一号地は貴族院議員伊集院子爵御約定済   二号地は貴族院議員赤松男爵御約定済   三号地は順天堂病院長佐藤男爵御約定済    四号地は佐藤男爵御約定済   十一号地は清浦子爵御約定済
 すなわち、貴族院議員の伊集院兼知子爵、同じく貴族院議員の赤松範一男爵、順天堂医院長の佐藤達次郎男爵という顔ぶれであり、また「清浦子爵」とは、貴族院議員の他、司法大臣、農商務省大臣、内務大臣、枢密院議長などを歴任し、大正13(1924)年には第23代内閣総理大臣に就任した清浦奎吾子爵のことである。かくも錚々たる名士、有力者たちが、早々に分譲地を求めたことは、この船原温泉の新事業を広く知らしめ、高級感や信頼感を醸成するのに役立ったことだろう。
図13.清浦奎吾(絵葉書) 筆者蔵
図13.清浦奎吾(絵葉書) 筆者蔵
 なお、『分譲案内』に掲載の地図を見ると、上記の他にも、「大野氏別荘」と「石井氏別荘」の記載があるが、これらは河浦地所部の分譲とは区別されるものと考えられる。「大野氏」は、『温泉の伊豆』に記載のあった「大野傳兵衛」であろう。
図14.船原温泉分譲地付近略図(部分) 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
図14.船原温泉分譲地付近略図(部分) 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
 次は、船原ホテルの開業後に発行されたリーフレット『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(前掲)の記載である。
 出来上りたる別荘○貴族院議員伊集院子爵の別荘○石井権造氏の別荘○岩下清周氏の又閑荘○羽田氏の対山荘○清水荘○友水荘 今後建築されるべき別荘○清浦子爵○佐藤男爵(順天堂病院長)○貴族院議員赤松男爵○杉原栄三郎氏等であります。 船原ホテル『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(前掲)
 これにより、先の「石井氏別荘」は「石井権造氏」の別荘であったこと、また『温泉の伊豆』に記載のあった「岩下氏」は「岩下清周氏」であったことが判る。また、この案内で新たに加わった名前も注目される、すなわち「出来上りたる別荘」のうち「羽田氏の対山荘」「清水荘」「友水荘」、そして「今後建築されるべき別荘」の「杉原栄三郎氏」である。ただし、後で紹介する「船原温泉見取図」を見る限り、「清水壮」は大野氏別荘、「友水荘」は河浦別荘のことを指したものであることが、それらの位置関係から明らかである。また、「羽田氏の対山荘」は、『温泉の伊豆』に「温泉旅館」の一つとして紹介されていた「対山荘」を指すものであろうか。
 このほかにも、『分譲案内』や船原ホテルの営業案内には、皇族、すなわち伏見宮博義王が朝子王妃とともに河浦別荘に宿泊したことや、開業後のホテルにも毎年滞在したことが繰り返し報じられている。
 伏見宮博義王殿下同妃殿下には大正拾四年十一月十一日より十八日迄河浦別荘に御滞在の上船原の山水を大層御賞讃遊ばされました。 河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(前掲)
 船原ホテルは開業後半歳にならざる三月廿一日より廿八日迄伏見若宮殿下御宿泊の光栄に浴したるは当ホテルの最も名誉とするところであります。 船原ホテル『伊豆温泉中第一の勝景地 船原温泉案内』(リーフレット)
 船原ホテルは開業後日尚浅きも毎年伏見若宮殿下御宿泊の光栄に浴したるは当ホテルの最も名誉とするところであります。 船原ホテル『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(前掲)
図15.伏見宮博義王と朝子王妃 大阪毎日新聞社編『皇室画報』(大正11年)より 筆者蔵
図15.伏見宮博義王と朝子王妃 大阪毎日新聞社編『皇室画報』(大正11年)より 筆者蔵
 河浦の船原進出は、かくも華やかに幕を開けたのであった。だが、河浦はこのような名士たちをどうして集めることができたのだろうか。一言でいえば、それは河浦自身の財界や社交界との結び付きを反映したものであっただろう。筆者の知る範囲で解説してみよう。
 これまでに登場した名前のうち、大野傳兵衛は、合名会社大野銀行ならびに株式会社大野貯蔵銀行の社長である。河浦は、大野銀行の業務執行社員を、また大野貯蔵銀行では取締役を務めていた間柄にあり、二人の別荘も隣り合わせに建てられていた。もしかすると、船原温泉の開発そのものに大野が深く関与していた可能性もあるだろうか。
 岩下清周は、北濱銀行の頭取として明治の関西財界を牽引し、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)や大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の創設に関わったことでも知られる銀行家、実業家である。先の『温泉の伊豆』には「古稀山には岩下氏計画の大遊園地が出来るとのこと」との記述も見られるが、岩下は同書が刊行された昭和3(1928)年に船原の別荘で急逝している。故岩下清周君伝記編纂会編『岩下清周伝』(昭和6年、近藤乙吉)は、この別荘について「是は君が晩年手に入れた古稀山殖林の事務所を兼ねて新築した處で、君に従へば、懸崖の南枝春を伝ふること早く、㵎流の 潺湲鶯語と相和して奥伊豆一番の仙境といふので、最も君の気に入りの別天地であつた」(50頁)と記している。
 また、分譲地の購入者には、同気倶楽部や帝国愛蘭会の会員の名前が見られるのも特徴である。都新聞社経済部『倶楽部めぐり』(倶楽部研究会、昭和3年)によれば、同気倶楽部は、西郷従道を総裁、板垣退助を副総裁に発足した同舟倶楽部を前身とする団体であり(同書によれば設立の時期は不明。ただし明治32[1899]年1月22日付東京朝日新聞には同年1月20日、帝国ホテルで同気倶楽部の創立総会が開かれたことが報じられている)、明治35(1902)年に西郷総裁が他界したのを機に政治団体から社交団体へ性質を改めたという。昭和3(1928)年当時の会員数は約600人。当時の幹部には、日本活動写真株式会社(日活)設立の発起人にも名を連ねた郷誠之助(副総裁)や、その日活で第4代社長を務めた藤田謙一(理事)の名も見えるが、それはともかく、このときの総裁が、船原に別荘地を求めた清浦奎吾であり、河浦は理事の一人であった。また同様に、伊集院兼知は監事、杉原栄三郎は常務理事という関係であった。なお、杉原栄三郎は吉澤商店が販売店を出店していた内国商品陳列館の館長、また函根土地株式会社やルナパーク株式会社で河浦とともに役員を務めていたので、財界人として多くの接点を持つ間柄であったと思われる。
図16.船原ホテル玄関にて 河浦輝雄氏蔵 前列に清浦奎吾(帽子の人物)と河浦謙一
図16.船原ホテル玄関にて 河浦輝雄氏蔵 前列に清浦奎吾(帽子の人物)と河浦謙一
 一方、洋ラン大全編集部編『洋ラン大全』(誠文堂新光社、平成30年)によれば、帝国愛蘭会は大正5(1916)年に大隈重信を会長に発足した。同会には、写真師で『紅葉狩』(明治32年)など初期の日本映画の撮影に関わった柴田常吉も創立者として関わっていたが、それはともかく、同会から刊行された会報誌『蘭』を見ると、伊集院兼知と河浦は(同気倶楽部の幹部としての付き合い以外にも)ともにその主要メンバーとして例会や品評会に参加、出品する間柄にあったことが判る(『蘭』の閲覧にあたっては上田学氏のご協力を得た)。また、例会や品評会にはしばしば「伏見宮家」からの出品が見られるが、伏見宮博恭王は当時の有力な愛蘭家であった。このような縁が、博恭王の第一王子である博義王が船原温泉を好んで訪れたことと関係しているのかも知れない。なお、余談ではあるが、明治32(1899)年に青山御所で皇太子殿下の活動写真御上覧を得て以来、吉澤商店の活動写真をご覧になった皇族には「華頂宮殿下」が含まれていたが[9]、これは当時華頂宮を継承していた博恭王のことである。
 最後に、「順天堂病院長佐藤男爵」についても触れておきたい。佐藤達次郎は、大正9(1920)年に順天堂医院長に就任。その後順天堂医科大学の初代学長、理事長などを歴任した。また、順天堂医院に藤浪剛一を招き、レントゲン科の開設に先鞭をつけたのも佐藤である[10]。河浦が船原ホテルを建てるにあたり佐藤が藤浪を紹介した可能性もあるだろうか。また、後で見るように、順天堂には、船原ホテルの東京事務所が置かれることになることからも、佐藤と河浦の絆はとくに深いものであったと推測される。詳しい経緯はわからないが、吉澤商店が輸入していた商品には医療器械も含まれていたので順天堂への出入りがあったのだろうか。また、先に取り上げた大野銀行社長の大野傳兵衛は、初代順天堂医院長であった佐藤尚中の次男哲次郎が東金の豪商大野傳兵衛の養子になり九代目を襲名したものであり、長女の操が佐藤達次郎に嫁いだ関係もあるので、そのことがきっかけになったのだろうか。
 いずれにせよ、河浦の中には、温泉観光や船原という地域の将来性とともに、自らの豊かな人脈を新事業の顧客に取り込むことも当然のこととして想定されていたのではなかったかと思われる。河浦にとって、実業家としての生涯の蓄積を注ぎ実現したのが船原温泉の開発であったといっても過言ではないだろう。

8.船原ホテル開業後のトピック

 以下では、船原ホテル開業後のトピックとその後の行方を、採集した資料をもとに、時系列でたどってみよう。
○船原温泉見取図
図17.船原温泉見取図 『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(リーフレット)より 筆者蔵
図17.船原温泉見取図 『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(リーフレット)より 筆者蔵
図18.船原温泉見取図(船原ホテル本館の周囲を拡大)
図18.船原温泉見取図(船原ホテル本館の周囲を拡大)
 図17は、前掲のリーフレット『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』の裏全面に描かれた「船原温泉見取図」である。大正昭和期の観光旅行の拡がりとともに流行した、いわゆる「鳥瞰図」の一つであるが(作者は湯川俊次)、これにより、当時の船原温泉全体の様子が見渡せるだけでなく、「着色なき建築物は今後建築すべき予定のもの」、すなわち「娯楽場」や「ホテル別館」「保養院」などの建設が計画されていたことが判る。それらの全てが計画通りに実現したのかどうかは、今後の調査の課題としたいが、少なくとも、河浦が構想した事業の規模を垣間見ることができるであろう。
○経営の陣頭に河浦亮一
 昭和3(1928)年刊行の佐久羊村『温泉叢書 第壱篇 旅館百撰 上巻』(前掲)に次の記述が見られる。
 経営の陣頭に立つてゐる河浦亮一氏は慶應の出身で、嫌味のない好紳士である。全く素人らしい経営ぶりが却つて客には歓迎されるであらう。
 ここに登場する「河浦亮一氏」とは、河浦謙一の長男である。その亮一(当時30歳)が船原ホテルの経営に関わっていたというものである。『大衆人事録 第三版』(昭和5年、帝国秘密探偵社、帝国人事通信社)には河浦亮一の項があり、ここにも「大正十一年慶応義塾理財科を卒業し父を扶けて機械雑貨貿易商を営みしが現時温泉旅館業を営む」と書かれている。亮一のその後の経歴についてはまた別稿で取り上げたい。
 この他に、船原ホテルの経営については、河浦謙一が残したメモ(佐藤忠男氏旧蔵の田中純一郎資料に含まれる。このメモについては別稿で詳しく紹介したい)に、次のような記述が見られる。
 観光客誘致の目的にて船原ホテルを開き鎌倉海浜院ホテルの山の内支配人を招き其支配人として其衝に当らしめ外国人の滞在客あるに至り又宮様方の御滞在あるに至れり
 「鎌倉海浜院ホテル」とは、明治20(1886)年に開かれたサナトリウム「鎌倉海浜院」を前身とする西洋風リゾートホテルの草分けで、利用者に多くの外国人や政財界人を集めたことが知られる(大正5年「鎌倉海浜ホテル」に改称)[11]。そのスタイルを河浦も参考にしていた様子が、「山の内支配人」を船原ホテルに招いたという内容からうかがわれる。なお、『鎌倉市中央図書館近代史資料室だより』第3号(平成26年3月)所収の平田恵美「鎌倉海浜ホテル追憶(その3)」の年表を見ると、大正11(1922)年の欄に「ホテル支配人C. M. バアテー、香川富太郎、副支配人山内惣太郎、石田伊三郎、常務取締役河田儀四郎」とある。「山の内支配人」とはこの山内惣太郎のことであろうか。
○温泉展覧会への出品
 昭和3(1928)年6月22日から7月5日まで、東京博物館で「温泉展覧会」が開催された。これも、温泉観光や研究の盛り上がりを象徴する出来事と言えるだろう。『温泉展覧会記録』(日本旅行協会、昭和4年)によれば、藤浪剛一収集の資料をはじめとする「温泉発達史料の部」、東京衛生試験所や商工省地質調査所などの出品による「温泉科学参考品の部」、各地の温泉組合や役場からの出品による「温泉旅行の部」などから構成される内容で、「温泉旅行の部」には船原ホテルから「船原温泉の絵画写真等」が出品された。それらがどのようなものであったのかこれ以上は判らないが、同書はこの展覧会を「斯用の企ては未だ嘗て行はれた事がない」(「温泉展覧会雑感」)、「一般社会に温泉に対する正しき利用の観念を与へ得た」(「記録刊行に際して」)と評価した上で、「此のさゝやかなる記録の刊行が幸にして将来わが国の温泉研究界に一新生面を拓き、温泉が吾人の生活に於て非文明的利用関係より真面目なる科学的利用関係にまですゝむことに役立ち得るとすれば望外の栄誉とするであらう」(同)と結んでいる。
〇映画のロケーション撮影
 昭和4(1929)年12月9日付読売新聞夕刊に、女優の及川道子が「船原温泉より」と題した随筆を寄せている。同年12月31日公開の松竹蒲田映画『恋愛第一課』のロケーション撮影に際し、船原ホテルの印象を記したものである。
 白いセツト式の建物は一寸官邸か公使館の感じで、内部の設備も万事快く出来てゐます。静かに更けてゆく南伊豆の晩秋の夜、枕頭に聴く渓流の音は、ひとしほ旅愁をそそりました。それがゆうべ『恋愛第一課』のロケイシヨンの第一夜でした。
 『恋愛第一課』は残念ながら既にフィルムが失われて観ることができないが、当時の映画雑誌には、主演の及川と岡田時彦、監督の清水宏等が船原ホテルの前で映画を撮影している様子がスナップ写真で紹介されている。
図19.『恋愛第一課』スナップ 『キネマ』昭和5年2月号より 国立映画アーカイブ所蔵
図19.『恋愛第一課』スナップ 『キネマ』昭和5年2月号より 国立映画アーカイブ所蔵
○順天堂による経営
 現存する船原ホテルの営業案内には、東京事務所が(河浦の邸宅があった目黒や、吉澤商店があった南金六町ではなく)湯島の「順天堂内」に置かれているケースが見られる。
 東京市本郷区湯島五丁目十番地 順天堂内    同東京事務所    電話小石川 自五六二〇番 至五六二二番 船原ホテル『伊豆温泉中第一の勝景地 船原温泉案内』(前掲)
 この当時の事情については、『順天堂史 上巻』に次のように書かれている。
 昭和六年(一九三一)に順天堂は奥伊豆の船原温泉の経営を始めた。現在の船原ホテルの前身であり、大野伝兵衛、武長事務長のほか、河浦謙一が経営に当たった。順天堂の職員もしばしばこのホテルを利用したが、約一〇年でこの経営は中止された。 『順天堂史 上巻』(順天堂、昭和55年)893頁
 昭和6(1931)年に順天堂が船原ホテルの経営を始めたというもので、これは先にも触れた、医院長の佐藤達次郎との交流を背景にしたものと思われるが、順天堂の武長(英三)事務長の他、再び大野傳兵衛の名前が見られる点も注目される[12]。
図20.順天堂経営時代のリーフレット 筆者蔵
図20.順天堂経営時代のリーフレット 筆者蔵
 
(第三部に続く)

[9]吉澤商店幻燈部『幻燈器械並ニ映画定価表 明治三十三年三月第十版改正』の「謹告」。
[10]『順天堂史 上巻』(前掲)を参照。
[11]平田恵美、島本千也編『鎌倉海濱ホテル 日本初の海浜リゾートホテル』(平成28年)を参照。
[12]「東金市デジタル歴史館」によれば、九代傳兵衛(哲次郎)は昭和4(1929)年に没しているので、当時は十代目(秀一)に代替わりしていたのであろうか。https://adeac.jp/tougane-city/text-list/d100050/ht010360 (最終アクセス:令和8年7月28日)。
 
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