映画産業の父・河浦謙一と船原温泉の開発 第一部 (Kenichi Kawaura, a Pioneer of Japan’s Film Industry, and His Development of Funabara Onsen: Part 1)

要旨

 明治期に映画の渡来に関わり、我が国の映画産業の基礎を築いた吉澤商店の店主・河浦謙一と、彼が晩年を過ごした伊豆船原温泉。両者の知られざる関係を、現存する資料から解き明かす。
 第1部では、新たに見つかった河浦地所部の資料を手がかりに、大正から昭和にかけて伊豆半島に押し寄せた開発の波と、河浦が最新の近代的設備、スタイルを導入して建設した船原ホテルの詳細を明らかにする。
 第2部では、多くの有力な政財界人や皇族を集め、船原温泉の事業が華々しく幕を開けた当時の様子や、ホテルの開業後の歩みをたどり、河浦の実業家としての人脈にも触れながら、彼が構想した開発事業の全容を俯瞰する。
 第3部では、富士観光、そして東洋郵船へと経営者を変えながら大きな変貌を遂げた船原ホテルの消長をたどるともに、現在の船原温泉の様子と、現地に河浦の事業が残した痕跡を訪ねる。

1.はじめに  

 本稿では、我が国に映像の時代をもたらしたパイオニア・河浦謙一が、大正末から昭和の戦前期にかけて行った船原温泉の開発について取り上げる。
 河浦謙一とは、明治30(1897)年に横浜湊座で「シ子マトグラフ」を公開し映画の渡来に関わった事業者の一つ、吉澤商店の店主である。吉澤商店はその後も国産映写機の製造や映画の輸入、製作にも手を拡げ、我が国最古の映画商社となった。国内初の映画館の開業に関わり浅草公園に映画街を築いたのも、目黒に国内初となる映画撮影所を建設したのも吉澤商店である。すなわち、映画の輸入・製作から興行にいたるサイクルをいち早く完成し、20世紀的な映画産業のモデルを先取りしたのが吉澤商店であった。この吉澤商店を含む明治の四大映画商社を合併して大正元(1912)年に生れたのが日本活動写真株式会社(日活)である。
図1.河浦謙一肖像写真 柴田直子氏蔵
図1.河浦謙一肖像写真 柴田直子氏蔵
 昭和の戦中期になって、この吉澤商店と河浦謙一の功績を発掘したのは映画史家の田中純一郎であったが、既に映画事業から離れていた河浦の所在を彼が突き止め、本人に面会したのが伊豆の船原温泉であったことも、有名なエピソードである。それを機に、いよいよ前例のない日本映画史の編纂が進められていくことになるのだが、しかし、河浦謙一はこのとき船原温泉で何をしていたのだろうか。田中によれば、河浦はそれまで「船原ホテル」を経営していたというのだが、それ以上のことは映画史研究の範疇からは外れる話題でもあるため、これまでは論じられることはなかった。また、本件の調査は船原温泉の事業に限らず、謎に包まれた大正期以降の河浦の足取りを明らかにするための第一歩ともなるものである。以下では、筆者が採集することのできた船原温泉に関する資料や河浦の足跡に関わる新たな資料から、船原ホテルの建設や別荘地の分譲事業の詳細を、その背景やホテルの消長とも合わせて紐解いてみたい。果たして、これらは船原温泉にとって、また河浦謙一にとって、どのような意味を持つのだろうか。

2.河浦謙一と船原温泉

 河浦謙一が伊豆の船原温泉に健在であることを田中純一郎が突きとめたのは、戦時下の昭和15(1940)年のことであった。田中は当時の様子を次のように回想している(本稿の引用文は一部の固有名詞を除き旧字を新字に改めた。また[ ]内は引用者による補足である)。
 船原温泉には、船原ホテルというのが一軒しかない。戦時のこととて、さつま芋の入った代用食しか、こういう場所では許されなかった。河浦氏は、この間まで、このホテルを経営していたのだそうだが、いまは株式組織にして、自分はホテルの脇に別棟を構え、そこに住んでいるといい、その家まで、番頭が案内してくれた。河浦さんは、小柄だが、上品な老人で、大きな耳が特長だった。 田中純一郎「秘稿日本映画 第6回 イタリア人・ブラッチャリーニ」『キネマ旬報』昭和40 年7月下旬号(No. 395)
 明治の映画商社、吉澤商店の主だったその人物は、意外にも最近まで「船原ホテル」を経営していたという。同年11月17日[1]に現地を訪問した田中は、ホテルの傍にある彼の住まいに案内され、ついに本人と対面した。
 船原温泉の一夜、話している間に、河浦さんはだんだん思い出がよみがえってきたとみえて、幸い手許に残された文書をいくつかひもときながら、夜の更けるのも知らず語り明かした。それによって、明治の映画界に、予想外に規模の大きかった吉沢商店の、世に埋もれかかった事跡が、つぎつぎに掘り起されたのである。 田中純一郎「秘稿日本映画 第6回 イタリア人・ブラッチャリーニ」(前掲)
 このとき、河浦謙一は72歳、田中は37歳であった。だが、いまあらためて河浦謙一の生涯をたどるべく、この船原時代の事業や生活に目を向けてみると、「船原ホテル」の概要や沿革などのごく初歩的な情報を得ることも容易ではないことに気付かされる。筆者が本件の調査を始めた頃は、WEB上で「船原ホテル」の情報を検索してみても、昭和58(1983)年に同名のホテルが火災を起こしたことや、そのホテルを横井英樹の東洋郵船が経営していたこと、廃業後も巨大な建物が長く放置されていたことや、平成11(1999)年には有名な純金風呂がその廃墟から盗み出され、再び世間を騒がせたことなどに関心が集中しており[2]、かつて河浦が関わっていたホテルとの接点を見出すことは困難とも思われるほどであった[3]。河浦が経営していた「船原ホテル」、それは一体どのようなものだったのだろうか。その正体を追ってみたい。

3.河浦地所部の資料

 筆者が見つけた資料の一つに、『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』という冊子がある。その裏表紙には、「河浦地所部」の連絡先が次のように書かれている。
 東京市外上大崎二二八番地(目黒行人坂上左)   河浦地所部     電話高輪一〇一五番  東京市京橋区南金六町十三番地(新橋際)   同新橋事務所     電話銀座特長三七八番 三七九番  伊豆国船原温泉場河浦別荘内   同船原事務所
図2.河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』表紙 筆者蔵
図2.河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』表紙 筆者蔵
 つまり、「河浦地所部」は東京目黒にあった河浦謙一の邸宅(日本初の映画撮影所もその敷地内に設けられた)、「新橋事務所」は南金六町にあった吉澤商店の住所に置かれていたことになるのだが、筆者も吉澤商店や河浦謙一の研究ではこれまで耳にしたことは無く、「河浦地所部」なるものの存在を初めて知ることとなったのである。冊子は、その名の通り船原温泉の別荘地の分譲を案内する目的で作られたものだが、その内容を見ると、自然の勝景や四季の魅力、温泉の泉質、山川の幸、幸楽や生活の便に加え、建築中の「新式浴室」や「改良旅館」に関する記述も含まれている。すなわちこれが、筆者の知る限り、河浦による船原温泉の開発に関わる最も古い刊行物である。
 そして、裏表紙にはもう一つ、「船原事務所」の記載があり、それが「河浦別荘内」に置かれていたことが判る。つまりこの別荘が、田中純一郎が河浦を訪ねた「その家」ではないだろうか。冊子には、その「河浦別荘」の写真も掲載されている。
図3.河浦別荘 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
図3.河浦別荘 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
 この冊子には発行年の記載がないが、大正15(1926)年7月29日付東京朝日新聞に河浦地所部が「伊豆之仙境船原温泉土地分譲」の広告を出しているので同じ頃刊行されたものであろう[4]。また、同年10月26日付読売新聞には「伊豆の仙境 和洋両式 船原ホテル」の広告が見られる。この後、年内に続けて船原ホテルの広告が掲載されていることから、船原ホテルも大正15年(=昭和元年)に開業したものと思われる。河浦謙一は当時58歳。つまり、還暦を目前にして手がけた新事業だったことになる。

4.船原温泉の開発と温泉観光ブームの始まり

 だが、河浦による新事業の舞台となった船原温泉とはそもそもどのような場所なのだろうか。ここではその地理と歴史を簡単にたどっておきたい。船原温泉は、修善寺温泉と吉奈温泉の中間に位置している。狩野川支流の船原川沿いにある山間の温泉地である。現在の住所は静岡県伊豆市上船原だが、河浦が関わった当時は、静岡県田方郡中狩野村上船原であった。
図4.伊豆半島地図 船原ホテル『船原温泉案内』(リーフレット)より 筆者蔵
図4.伊豆半島地図 船原ホテル『船原温泉案内』(リーフレット)より 筆者蔵
 ところで、前掲の『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(以下、『分譲案内』と記す)には次の記述が見られる。
 熱海線丹那トンネル開通の上は非常に時間が短縮されます。駿豆鉄道の延長線が船原出口又は湯ケ島迄完成の暁には一層時間が短縮され従つて交通の便に伴ひ地価の騰貴を来す事になります。 河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(前掲)
 船原温泉への交通は、現在なら修善寺駅から路線バスで20分ほど(約10km)。そして修善寺駅も、東京駅から直通の特急踊り子でほぼ2時間という手軽さだが、河浦が事業を始めた頃は、日本全国で交通網の開発整備が活発化していたさ中にあり、伊豆半島も例外ではなかった。そして、その中でも最も大きな計画が「熱海線丹那トンネル」の工事であった。この当時の東海道本線は、箱根越えのため国府津駅から北へ外輪山を迂回し、御殿場駅経由で沼津駅に通じていたが、このルート(現在は御殿場線として分離)は最大で「四十分の一勾配」(40ftにつき1ft登る割合の急勾配)のために補助機関車を要する難所であった。
 そこで、今度は国府津駅から南へ熱海経由で伊豆半島を横断し、沼津駅へと結ぶ新ルートの「熱海線」(現在は東海道本線の一部)が計画されたものであり、またそれを可能にしたのが、丹那断層を貫いて建設された全長7,804mの「丹那トンネル」である。これにより走行距離や時間が飛躍的に改善されることとなった。
 もっとも、丹那トンネルは大正7(1918)年4月の着工から7年の工期を予定していたのが、多量の湧水や崩壊事故、さらには北伊豆地震の発生(昭和5[1930]年)にも災いされ、結果的には昭和9(1934)年12月に開通するまで16年もの歳月を要することとなった[5]。仮に工事が計画通りに進んでいれば、大正14(1925)年に竣工していたことになるので、当初は船原ホテルの開業も、その直後に狙いを定めていたものであろうか(なお、「熱海線」は大正14年に熱海駅までが開業し、それとともに熱海には観光地としての発展がもたらされることとなった)。
 そうであれば、丹那トンネル建設の遅れは河浦にとっても誤算だったかも知れないが、船原温泉を取り巻く交通網の整備はその間も目覚ましい勢いで進められていた。その一つに、今日船原温泉の最寄駅となっている駿豆線の修善寺駅が大正13(1924)年8月に開業したことが挙げられる。駿豆線は、東海道本線と大仁駅をつなぐ静岡県最古の民営鉄道であり、船原温泉も大仁駅を最寄駅としていたが、それを延長し新たな終着駅として修善寺駅が設けられたものである(先の引用文を見ると、さらに「船原出口又は湯ケ島迄」延長の予想もあったようだが実現していない)。なお、今日東海道本線と駿豆線は三島駅で接続しているが、丹那トンネルが開通するまでは、現在の御殿場線の下土狩駅(移設前の三島駅)を接続駅にしていた[6]。
 また、『分譲案内』には、自動車道の整備に関する記述も見られる。
 船原より土肥海岸を経て松崎に至る自働車道路は九十万円の予算にて県会の決議を経て本年より着手されます。此道路が出来ますと天城の険を越えて下田に行く現今の自働車通路は船原、土肥、松崎を経て下田に至る新道に代はり船原の価値は一層高まると同時に地価も上ります。 河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(前掲)
 『松崎町史年表』(昭和46年)によれば、昭和3(1928)年4月に「松崎‐土肥‐船原間の県道開通する」とあるので、上記の「自動車道路」のことではないかと思われる。なお、静岡県『一般国道・県道路線調書(昭和58年4月1日現在)』によれば、県道の下田松崎線、松崎土肥線、土肥大仁線、静岡下田線が、昭和28(1953)年に2級国道下田三島線に指定、また昭和40(1965)年には現在の一般国道136号に指定されている(伊豆の道路整備に関する資料は静岡県立中央図書館のご教示を得た)。
 船原ホテルの建設は、伊豆半島に押し寄せるこのような開発の波を予測した上で、綿密に計画されたものだったのではないだろうか。ところで、関戸明子『近代ツーリズムと温泉』は、全国的な交通基盤の整備に伴うツーリズムの発達について次のように記している。
 近代日本におけるツーリズムは、全国的な鉄道網の形成にともない急速に発達した。それは、第一次世界大戦後の一九二〇年代から三〇年代にかけてのことで、登山・ハイキング・スキー・海水浴・避暑などの人気が高まった。そうしたなかで、エリート・知識人や都市中間層だけでなく、農民から工場労働者まで、幅広い層によって支持されたのが温泉であった。  ツーリズムが拡大していく条件には、経済的に豊かで休暇を取ることができる人々の増加、安全に早く移動できる交通基盤の整備、メディアによる観光情報の普及、受け入れ地におけるサービスの充実などがあげられる。これらは、近代を象徴する現象といえる。 関戸明子『近代ツーリズムと温泉』(ナカニシヤ出版、平成19年)まえがき
 河浦の船原温泉開発とは、1920年代から30年代にかけてのツーリズムの拡大、またその中で高まりを見せた温泉観光のブームと重なるものであり、また同時に、それが日本人の代表的なレジャーとして定着してゆくプロセスに深く関わるものであった。このように、一見意外に思えた河浦と温泉事業との結びつきも、実は明治以降の近代化を背景とする日本人の生活・文化の変化を先取りしようとする点において、活動写真に代表される吉澤商店時代の事業とも深く通底するものであったことが判る。
 そして、このことは、河浦が建設した船原ホテルや浴場のコンセプト、外観、機能にも表れることになるのだが、そのことを確認するためにも、まずは河浦が事業に関わる以前の船原温泉の様子から見ておこう。

5.船原ホテル開業前の船原温泉:湯治場から「仙境」へ

 以下は、大正期に刊行された旅行案内の記述である。
 大仁より三里、鈴木、熊野の二軒の宿がある、効能は梅毒、皮膚病、腫物類、されば無病の保養客は至つて少ない。 上條勝太郎『富士脈温泉案内』(伊豆交通社、大正元年)79頁
 旅館は鈴木旅館、船原館、熊野屋の三軒丈けで、宿泊料は一円五十銭以上である、鈴木旅館、船原館は断崖の下、深潭に望み浴しつゝ淙々の流れを聞き、臥しつゝ青山紅葉の美を見る事が出来る、真に仙郷である、近頃新温泉を発見したので、湯の量も沢山ある 菊池芳園『豆相温泉案内』(岳南社、大正11年)19頁
 このように、大正元年の時点では「無病の保養客は至つて少ない」と言われるほど湯治目的の利用に限られていた船原温泉であったが、それが大正末にもなると「仙郷」の表現が使われるようになり、勝景の遊覧を兼ねた観光地として注目されている様子がうかがわれる。また、旅館は、わずかに鈴木旅館と熊野屋だけのところへ船原館が加わったことが判る。そして、河浦が船原への進出にあたり目をつけたのは、鈴木旅館であった。
 従来営業の鈴木旅館を買受けまして既にその改築工事も進捗致しました故本年四月中旬よりはこれ迄とは面目を一新した御待遇を致す事が出来ます。改良旅館は共楽園と称して茶代は全廃致し[後略] 河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(前掲)
 つまり、鈴木旅館を河浦地所部が買収し、改築して(後で見るように、建て替えて)生まれたのが「船原ホテル」である。なお、菊池芳園の『豆相温泉案内』の解説は、発行年によっては(前年までの書名は『伊豆温泉案内』)「鈴木旅館」の記載が無く代わりに「舟風館」と書かれているものがあるが、当時の営業案内(筆者蔵)によれば、これらはいずれも同じ旅館を指すもので、鈴木五六九経営の「舟風館鈴木」が正式な名称のようだ。一方、「改良旅館は共楽園と称し」たというのは、「船原ホテル」より前に「共楽園」が名称の候補に挙がっていたのだろうか。あるいは船原ホテルの「旅館」部分が(宿泊施設を、別棟の「新式浴室」などと区別して)そのように呼ばれたのだろうか。いずれにしてもこの『分譲案内』には、まだ「船原ホテル」の文字は見られない。
図5.舟風館鈴木(絵葉書) 筆者蔵
図5.舟風館鈴木(絵葉書) 筆者蔵
図6.船原館(絵葉書) 筆者蔵
図6.船原館(絵葉書) 筆者蔵

6.船原ホテルの開業:白亜館と科学応用の温泉設備

図7.船原ホテル(絵葉書) 筆者蔵 図5の「鈴木臨渓塔」が同じ位置に見える
図7.船原ホテル(絵葉書) 筆者蔵 図5の「鈴木臨渓塔」が同じ位置に見える
 昭和2(1927)年に刊行が始まった『温泉の伊豆』(静岡県温泉組合連合会)では、第一号から船原ホテルが取り上げられている。以下は、第2号(昭和3年)の紹介である。
 自動車を降ると真正面に、待遇懇切、茶代廃止、船原ホテルの大看板が眼につく、茶代廃止は最も良いことで、県下全般に実行したいものである、待遇懇切は当然のことであるから、此の文字の代りに、和洋両設備と書けば、一層繁盛することゝ思ふ。  船原ホテルは河浦氏の経営で、白亜館とも云ふ様な宏壮な建物で、あたりの山色を対照して一段と眼立つて見へる、温泉プール、湯瀧其他の設備も完美して居て、貸別荘も数棟ある、温泉旅館にはホテルの外に、船原館、対山荘などがあつて、漸次交通の開発と共に、温泉地将た別荘地として発展すべき土地である。  別荘には岩下氏を始め、伊集院男、大野傳兵衛氏などの別荘がある、古稀山には岩下氏計画の大遊園地が出来るとのことである。[後略] 白浪庵秋水「船原遊記」『温泉の伊豆』第2号(静岡県温泉連合組合会、昭和3年)78頁
 「白亜館とも云ふ様な宏壮な」洋風建築や、「茶代廃止」のスタイルが、船原温泉の景観や観光業を一変させたことは想像に難くない。茶代については、富田昭次『ホテルと日本近代』(青弓社、平成15年)が、帝国ホテルの支配人だった犬丸徹三の回想を引用しながら解説している。それによれば茶代とは「宿泊料金や従業員に渡す心付けとは別に、旅館に対して支払う金銭のこと」で、「宿泊に際して、旅館の格、室の規模、造作、設備及び番頭女中の接遇振りなどを、密かに研究し」て額を決定する必要があるため、いつしか利用者を惑わす前近代的な習慣となり、まして「海外の宿泊事情を知悉する者にとっては、甚だ非合理的な存在」であったが、「昭和に入ってから徐々に姿を消していった」(同書235‐237頁)。
図8.船原ホテルのポスター 筆者蔵 「茶代廃止」「日本唯一之最新式温泉浴室新設」「温泉のデパートメントストア」の記載が見られる。デザインは河浦の次男・前島誠一による。
図8.船原ホテルのポスター 筆者蔵 「茶代廃止」「日本唯一之最新式温泉浴室新設」「温泉のデパートメントストア」の記載が見られる。デザインは河浦の次男・前島誠一による。
 これらは、かつて河浦が、浅草公園第六区に並ぶ見世物や芸能の観物場を洋風建築の映画館に塗り替えたことや、いち早く女性の案内人を配置して前近代的な興行街の空気を一新したことを思い出させる。なお、「岩下氏を始め、伊集院男、大野傳兵衛氏などの別荘」については後で取り上げる。
図9.船原温泉全景(絵葉書) 筆者蔵 左手前に船原ホテル
図9.船原温泉全景(絵葉書) 筆者蔵 左手前に船原ホテル
 また、『分譲案内』には、この船原ホテルの施設のために著名な専門家が招かれたことが記されている。
 従来湧出の三温泉の外今回発掘中の新温泉は殊に其の湧出量が豊富でありますので工学士、建築士出浦高介氏監督の下に別紙図面の如き浴場を建築中で三月中には落成の予定であります。浴場の種類は即ち噴出浴槽、湯瀧、湯のシヤワー、電気浴、砂浴、四肢浴、座浴、射浴、蒸気浴、ジヤーテルミー等でなほ科学応用の温泉利用法は斯道の大家へ御依頼し遺憾なきやうに設備致します。 河浦地所部『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』(前掲)
 つまり、「工学士、建築士出浦高介氏」が浴場の建築を監督したというものである(図11は、文中に言及のある「別紙図面」)。出浦高介(1884-没年不詳)は、『株式会社池田組十年史』(池田組、昭和15年)によれば、明治41(1908)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、辰野金吾の事務所で建築設計監督の事務を分担し、大正4(1915)年から昭和14(1939)年まで出浦建築事務所を経営した。また、昭和13(1938)年に池田組の顧問に迎えられ、翌15(1940)年には副社長に就任している。
図10.船原ホテル(絵葉書) 筆者蔵 手前に浴室、右手奥にホテルが見える
図10.船原ホテル(絵葉書) 筆者蔵 手前に浴室、右手奥にホテルが見える
 しかし、今日最もよく知られているのは、大正10(1921)年に創建された野澤屋呉服店(後に横浜松坂屋本館)の設計者としての業績ではないだろうか。出浦が船原ホテルの浴場の建築に関わったのは、その直後のことであった。
図11.浴室平面図 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
図11.浴室平面図 『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』より
 一方、この浴場には「噴出浴槽」や「電気浴」「蒸気浴」「ジヤーテルミー」(ジアテルミー)など先進的な設備の数々が詰め込まれた。この「科学応用の温泉利用法は斯道の大家へ御依頼し遺憾なきやうに設備」したという「斯道の大家」とは誰だったのだろうか。
 温泉学の大家医学博士藤浪剛一先生の御指導により温泉物理療法を漸次に開始致します。 船原ホテル『伊豆の仙境 船原温泉と船原ホテル』(リーフレット)
 わが国温泉界の最高権威藤波[ママ]博士が親しく御計画下さいました当ホテルの浴室は[後略] 船原ホテル『伊豆 船原温泉』(リーフレット)
 つまり、「温泉学の大家医学博士藤浪剛一先生」が温泉物理療法を「御指導」し、浴室を「計画」したというものである。藤浪剛一(1880‐1942)は、一般には我が国放射線医学の先駆者と呼ぶ方がわかりやすいかもしれない。藤浪はウィーン大学でレントゲン学を学び、明治45(1912)年に帰国すると、順天堂医院に招かれ、日本初となるレントゲン科の科長に就任した。大正9(1920)年には慶應義塾大学に医学部が設置されると教授として転任し、理学的診療科を開設した[7]。
 ちなみに、ヴィルヘルム・レントゲンによりX線が発見されたのは1895(明治28)年で、その報は翌1896(明治29)年には日本にも伝えられた。X線透視法、X線撮影法は、映画と同じ時期にもたらされた近代の発明品であり、映画史研究の世界では明治30(1897)年、ヴァイタスコープを輸入した荒木和一が活動写真の上映とともにエジソンのX光線器械の実演を行い話題を集めたことが知られている。また吉澤商店でも、同年11月には、エジソン社との契約による活動写真器械や蓄音器とともにX光線用器械の販売を告知している[8]。
ところで、藤浪の扱う専門分野は、放射線医学の他にも医学史や温泉科学など幅が広く、日本医学放射線学会をはじめ数々の学会の立ち上げにも関わったが、その中には日本温泉科学会も含まれている。また『温泉日本』(昭和5年、共著)、『東西沐浴史話』(昭和6年)、Hot Springs on Japan(昭和11年、共著)、『温泉知識』(昭和13年)等の温泉に関わる著作も多く発表している。
 このように出浦も、藤浪も、当時の各分野で活躍する一流の人材を招いたものであり、船原ホテルが、建物のデザインと温泉の設備の両面で先進性を追求していたことが判る。これらも、かつて浅草公園にルナパーク(今日のテーマパークのはしり)を建設した河浦の近代化への志向と深く結びついていたのではないだろうか。
図12.絵葉書「伊豆船原温泉 第二集」より 筆者蔵
図12.絵葉書「伊豆船原温泉 第二集」より 筆者蔵
(第二部に続く)

[1] ただし、田中は『日本映画発達史I』(中央公論社、昭和50年)で は「一〇月」、「『輸入カメラ第1号』考」『映画テレビ技術』No.2 20(昭和45年12月)で は「11月18日」とも記している。
[2] 栗原亨『廃墟の歩き方2 潜入篇』(イースト・プレス、平成15年)、「Legend of Ruins ~廃墟伝説~」http://kuromax.web.fc2.com/index.htm(最終アクセス:令和2年1月11日)を参照。
[3] その後、令和3年7月にはウィキペディアでも「灰色の海」により「船原ホテル」が立項された。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%8E%9F%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB(最終アクセス:令和8年5月27日)
[4] 後で見るように、『伊豆の仙境 船原温泉別荘地 分譲案内』には「浴場を建築中で三月中には落成の予定」とあることから、発行の時期をある程度まで絞り込むことができるだろう。
[5] 丹那トンネルについては、鉄道省熱海建設事務所編纂『丹那トンネルの話』(工業雑誌社、昭和9年)、および丹那神社奉賛会公式サイトhttp://www.kinomiya.or.jp/tanna/index.html(最終アクセス:令和2年5月6日)を参照。
[6] 駿豆線の沿革については、伊豆箱根鉄道グループの公式サイト「伊豆箱根鉄道 会社の沿革」 http://www.izuhakone.co.jp/corporate/history_top/index.html/(最終アクセス:令和2年5月6日)を参照。
[7] 『順天堂史 上巻』(順天堂、昭和55年)を参照。
[8] 拙稿「吉澤商店主・河浦謙一の足跡(2)活動写真時代の幕開き」『東京国立近代美術館研究紀要』22号(平成30年)38頁を参照。https://momat.repo.nii.ac.jp/records/19(最終アクセス:令和8年6月14日)。
 
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