三嶋大社の常夜燈の有馬頼徸と三嶋暦について

 三嶋大社(注1)の大鳥居を潜ると、一対の燈籠(常夜燈)がある。この燈籠には、「久留米左少将源朝臣頼徸敬白」と書かれている。江戸時代の和算家(数学者)筑後国久留米藩の第七代藩主有馬頼徸(ありまよりゆき)のことである。
 この燈籠は昔から「有馬さんの『めくら燈籠』」と呼ばれていたと伝えられている(※「めくら燈籠」とは、灯のともらない燈籠、または内部に灯火を入れても外から見えにくい仕組みの燈籠を指す古い呼称。本呼称は今日では差別的表現とされるため、歴史的呼称としてカギ括弧付きで表記する)。なぜ三嶋大社に九州の数学大名の燈籠なのか、なぜ「めくら燈籠」なのか、長年疑問に思っていた。多分、私が三嶋暦(注2)に携わらなければ、この謎は解けなかったかもしれない。
 
図1.三嶋大社の常夜燈
「久留米左少将源朝臣頼徸敬白」、「安永二年癸巳正月穀旦」、「奉獻」と書かれているのがわかる。
図1.三嶋大社の常夜燈 「久留米左少将源朝臣頼徸敬白」、「安永二年癸巳正月穀旦」、「奉獻」と書かれているのがわかる。
 
 以下にそのことを記す。
 三嶋大社の社家村にある三嶋暦師の河合家では、天文学者・数学者・陰陽師が共同で作業して編暦(暦を作ること)していた。従って、高度な数学を学んだ暦師がいたことを疑う余地はない。江戸時代の数学者は、関孝和(せきたかかず)を筆頭に、その弟子たちも高度な数学を学んでいた。関孝和は、授時暦(じゅじれき/元王朝でイスラーム天文学の観測技術を取り入れ編纂された中国の最高峰の曆)を深く研究し、宣明暦(せんみょうれき)の改暦も考えていた。宣明暦は、貞観四年(862)から823年間日本で使われてきた曆で、江戸時代初期には二十四節気が実際よりも2日早く記載されて支障をきたしていた。しかし、渋川春海(しぶかわはるみ)の貞享の改暦(貞享暦/じょうきょうれき)により関孝和の改暦は頓挫する。その後、関孝和の弟子たちによる関流数学者の多くは天文や暦算に携わることになる。
 関流の和算家であり暦学者の山路主住(やまじぬしずみ)も幕府の天文方(てんもんがた/子孫も代々天文方)に任じられた。その弟子が有馬頼徸である。有馬頼徸は山路主住に師事し、当時最高といわれる数学書も書いている。そして、多くの関流数学者を召し抱え援助した。その一人、幕府天文方手伝い藤田貞資(ふじたさだすけ/山路の高弟で天下第一と称された)が眼病のため、天文方を退いた後、山路の推薦で有馬頼徸が藤田貞資を召し抱えている。このことから、有馬は天文方にも関わりがあり、三島宿を訪れた際、三嶋暦師と会っていたと考えられる。更に、暦は高度な数学を必要とするため、最先端の数学者として、三嶋暦の暦算に加わっていたことが考えられる。
 そして、三嶋大社の常夜燈には安永二年(1773)癸巳正月穀旦と書かれている。これは有馬の師事した山路が安永元年十二月十一日に亡くなった翌年の直ぐのことである。偶然とは思えない。なぜなら、常夜燈には「奉獻(ほうけん/奉献)」と書かれている。通常は「奉納(ほうのう)」と書かれるはずである。奉献とは、「神仏のほか、上に立つ人に献上し奉ることをいう」と、ある。この偶然を推察するならば、有馬頼徸が師匠山路主住(宝暦の改暦にも携わった暦学者・天文学者)のために三嶋暦と関係する三嶋大社(三嶋大明神)に奉献したのではないだろうか。
 従って、「有馬さんの『めくら燈籠』」とは、暦の天文観測で重要な、星を観測するのには常夜燈に火が灯らない方がよいのは当然のことである。有馬は幕府の天文方を歴任した山路のために、亡くなっても山路が星を見れるように、敢えて燈籠に灯をともさない「めくら燈籠」にしたのではないだろうか。
 これが、私の謎解きとなったが、定かな古文書等は残されていない。
 
(注1)三嶋大社は、静岡県三島市にある伊豆国一之宮で、大山祇命と積羽八重事代主神を祀る。源頼朝が深く信仰し、武家政権成立にゆかりを持つ神社で、国重文の社殿や樹齢千年の金木犀も名高い名社である。 (注2)三嶋曆は、静岡県三島市の三嶋大社の神威により三嶋大社の社家村の暦師(陰陽師)の河合家(賀茂氏)で作成・頒布された曆で、平仮名で版木を使った曆としては日本で一番古いとされている。武士の時代の鎌倉時代から作られていた暦で、特に関東で広く汎用され、政治・経済・宗教・文化や庶民の生活などに影響を与えていた。
 
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