幻の城「泉頭城」 ーなぜ、徳川家康はこの城を選んだのかー

1.泉頭城と家康

 慶長二十年<元和元年>(1615年)5月、豊臣秀頼を大坂城に滅ぼした徳川家康は、駿府城に戻ると間もなく江戸城へ入りました。関東各地で放鷹した後、12月に駿府へ戻るのですが、その帰途に※泉頭城跡が気に入ったようで、隠居所と定めたようです。
 ※泉頭城は弘治年間(1555~1558年)に北条五代の3代目北条氏康によって築かれ、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」で小田原城の落城とともに廃城となりました。
 【史料1】の『駿府記』によると、慶長二十年<元和元年>(1615年)11月29日に三島近辺に隠居所を探すよう部下に命じたことや、同年12月15日に三島に立ち寄った際、泉頭の土地柄を気に入ったため、ここへの隠居を決めたとする記述があります。
 
【史料1】『駿府記』 「霜月廿九日 三島近辺御隠居 可被見立之㫖被仰出云々」 「極月十五日 辰刻、三嶋出御、近所、泉頭、為勝地之間、御隠居可被成之㫖、被仰出来春、 御隠居云々 未刻、善徳寺着御云々」
 
 徳川家康側近の以心崇伝(京都南禅寺金地院の僧侶で、大坂夏の陣のきっかけの一つとなった「国家安康」の方広寺鐘銘事件の黒幕とされている人物。)が京都所司代の板倉勝重に宛てた書状の留め書である【史料2】の『本光国師日記』には、城の普請に取りかかるまでの約1カ月の様子が細かく記されています。
 また、1616(元和2)年正月3日の『細川忠興書状』では、本多正純や土井利勝に縄張りを命じたことが記載されています。この書状によると、家康自身は日雇い労働者を募集して自己負担で築城する(大名への負担を避ける)考えでしたが、この計画を知った諸大名たちは指示を待たず、泉頭付近で石切場を競って探し、我先にと占拠して石垣づくりの態勢を整えはじめたとあります。細川忠興もこの状況から、幕府が諸大名に城普請を命じるかもしれないと予測していました。
 そして同年正月8日の書状では、家康からの信頼が厚く、築城名人の藤堂高虎が日雇い労働者では石垣は築けない(高度な技術が必要な工事は難しい)と進言したため、いよいよ諸大名が土木工事を分担する「天下普請」不可避かと思われたことや、正月16日になって本多正純から泉頭築城の中止を伝達されたことが記載されています。
 家康が3カ月後の4月に亡くなったことから、この決定には体調悪化が関わっていたとされていますが、この中止により、泉頭城は家康の「幻の城」となりました。
 
【史料2】『本光国師日記』 [書状1]元和元年十二月十七日 来年者、伊豆三嶋へ可被成御隠居旨ニ候間、方角以下御尋候故、具ニ申上候、来年東ハ一段と能方ニ而御座候通申上、是又御機嫌能御座候、所をは、いつミかしらと申由候、三嶋のきわにて御座候由候、
 

2.泉頭城のかたち

 城域は東西400m、南北500mで、中央の広大な台地を本曲輪とし、二ノ洞と三ノ洞と呼ばれる川や谷によって仕切られています。それぞれ深さ10m以下であり、それほど険しいものでないため、とり囲むように曲輪を配置するという変わった構造を採用しています。
 曲輪は人工の空堀で区画され、北曲輪、東曲輪、西曲輪、舟付曲輪、馬出曲輪(小郭)、第六天曲輪、南曲輪が設けられました。それぞれの曲輪は、土橋と木橋で結ばれていました。図1の現在と縄張り図の比較を見てみると、柿田川公園の駐車場周辺が本曲輪で公園の方が西曲輪であることがわかります。実際に現地を歩いてみたところ、本曲輪南側は馬出曲輪→堀切→舟付曲輪の部分は散策道になっていました。また、ニノ洞は貴船神社がおかれていました。
 東曲輪・大六天曲輪・馬出曲輪(小廓)・南曲輪は市街地となっており、北曲輪も国道1号線が通るなど都市化が進んだ影響で、その遺構は完全に隠滅してしまっています。
 現存している柿田川の湧水は、富士山の雪解け水が数十年かけて湧き出しているとされ、その量は一日に100万トンといわれています。この付近には、『駿府政事録』や『徳川実紀』、『本田正純聞書』などにも掲載されているように、家康が愛読していたとされる『吾妻鏡』に登場する源頼朝と源義経の対面石が置かれている八幡神社や、三嶋大社に参詣した頼朝が立ち寄ったという宗徳院があります。

3.まとめ

 家康が大坂城で豊臣秀頼を滅ぼした後だったことを考えると、西には駿府城がすでに築かれていたため、防衛線という目的でこの地を選んでいないことが分かります。また、自己負担での築城を考えていた(大名に経済的負担をかけさせなかった)点においても、戦略的な意図もなかったといえます。更に、城のかたちから見て、ある程度の要害地形を巧みに取り込んではいるものの、各曲輪の区画が人工の掘1本のみであることから、城の機能としては心もとないものであり、防衛目的とは考えにくいことが分かります。
 以上のことから、この地は要所でもあり、籠城の際には湧き水があるといった利点はあるものの、家康は本来の城の役割である「防衛」を目的にこの地を選んでいないということが分かりました。では、何を基準に城を築いたのでしょう。
 我々が導き出した結論は、「ただ単純に、好きなものに囲まれていたからこの地を選んだ」というものです。『駿府政事録』によると、家康は駿府城内の屋敷においても清浄な水を求めて井戸の試掘を行うなど、水にこだわっていたとされています。健康オタクといわれた家康にとって、柿田川の湧水は他には代えられない「好き」要素だったのです。また、頼朝が信仰した三島大社の近くという点も、いつでも推しの聖地巡礼ができるという「好き」の大きな要素となったのではないでしょうか。余生を悠々自適に「好き」に過ごしたいというのは、今も昔も変わらない感覚なのだと実感するとともに、家康の「好き」が詰まったこの柿田川は、同じように変わることなく、我々にとっても「好き」な場所であり続けると思います。
 
図1.現在と縄張り図の比較
『静岡県の城跡』編纂委員会, 静岡古城研究会 (2012) をもとにGoogle マップ上に作成した。
図1.現在と縄張り図の比較 『静岡県の城跡』編纂委員会, 静岡古城研究会 (2012) をもとにGoogle マップ上に作成した。

参考文献

 
  • 『静岡県の城跡』編纂委員会, 静岡古城研究会 (2012) 静岡県の城跡 : 中世城郭縄張図集成. 静岡古城研究会.
 
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